5.翼



「セリティウスせんせーい!」
麗らかな正午過ぎ。花が満開に咲き乱れる春の邸宅。その庭先に建てられた東屋で、金の髪の
少女は大きく手を振っていた。
「こっちこっちー!はーやくー!」
「ああ、判ってるよシュリア。」
応えたのはセリティウスと呼ばれる薄茶の髪の青年。
彼は小脇に何冊かの本を抱えて、暖かな陽光の下を、東屋へと向かって歩いていく。
 此処はシュリアと呼ばれる少女の家。街一番の豪邸を持つ彼女の父は、有名な商人だった。
「こんにちは、先生っ。ごめんなさいね?此処まで来てもらっちゃって。」
セリティウスはシュリアの家庭教師だった。普段は少女の部屋で授業をしていたのだが、今日
は天気が良いからと、シュリアが外で勉強をしたいと言ったのだ。
 手を合わせ、小首を傾げて謝るシュリアへ、セリティウスは「いいよ。」と軽く応えた。
「こんな良い天気だしね。部屋の中より、外の方が頭が働きそうだ。」
「でしょう?はい先生、お茶をどーぞ。」
「ありがとう。」
シュリアはお気に入りのカップに、お気に入りのハーブティーを淹れると、セリティウスに差
し出した。本を置き、柔らかく甘い香りのする其れをセリティウスは受け取ると、椅子に腰掛
け一口、口に含む。
「美味しいな。」
「本当?」
「あぁ、凄く美味しい。」
「良かった!そのハーブね、私が育てたの。大事に大事に育てたのよ。」
シュリアは嬉しそうな笑みを顔中に広げると、「今度先生にも分けてあげる!」と言った。
セリティウスは微笑ましげに少女を眺め、柔らかい口調で礼を言う。
「嬉しいな、ありがとう。…さて。そろそろ授業に入ろうか。今日は数学だったね。」
「えーっ。」
「おや?何か不満かな。」
一転してシュリアの声に明らかに滲む嫌そうな雰囲気は、様子だけでも十分判るというのに、
セリティウスはパラパラと本を捲ると意地悪く微笑んで問うた。
「…せんせー、歴史にしません?私歴史の方が好きだわ。」
「好きな事ばかりしていてはいけないよ、シュリア。嫌いな事も、時にはやらないとね。」
「むー…。」
ふてくされるシュリアを見て、セリティウスは困ったように溜息をつく。この少女は甘やかさ
れて育ったせいか、少し我が侭な所があった。基本的には、無邪気で可愛い子なのだが…。
「さぁ、始めよう。今日は56ページからだよ。」
「…はぁーい…。」

    ***

 小鳥が甲高い声で鳴いた。ピピピピ…チチチ…。風はその歌を、花の香りと一緒に運ぶ。
「――で、あるからして。此処の証明は…」
「ねぇ、先生。」
セリティウスの講義を遮るように、シュリアは呼びかけた。
青年が目をあげてみると、シュリアは数字の並ぶ本ではなく、青い空を自由に飛びまわる小鳥
達を見ていた。
「…シュリア、授業中だよ。」
「判ってます。」
シュリアはにっこりと答える。
「ねぇ、先生。先生は羽の生えた人間に会った事、あります?」
「だからね、シュリア――」
「授業中だ、って言いたいんだしょう?判ってますってばー。」
少女はつんと細い顎をあげると、桜色の唇を尖らせる。「でも、ちょっとくらいいいじゃない
ですか。少しだけお話してくれたら、ちゃんと勉強しますよ。」
そう言う少女に、セリティウスは二度目の溜息を吐き出した。「ダメだ。」と言おうと思った
が、長年付き合ってきたこの生徒は、こうなってしまうと願いを聞き届けない限り頑として勉
強をしようとしない。セリティウスはこめかみを指先で軽く押すと…
「…判った。ただし、少しだけだよ…?」
「わぁい!ありがとう、先生!」
「それで、何の話だったかな?」
「羽のある人間の話ですよ。」
シュリアはペンを投げ出すと、うきうきと顔を輝かせてもう一度同じ問いをセリティウスに向
ける。
「先生は、羽のある人間に会った事、ありますか?」
「羽のある人間…有翼人か。いや、話を聞いた事はあるが、会った事はないな。それで有翼人
がどうかしたかい?」
「うよくじん。へぇ、そういう名前なんだ、あの子。」
「あの子…?」
セリティウスは茶の瞳を細めると、軽く首を傾けた。
「そうです。実は私…」
「有翼人に会った…?」
セリティウスの推測に、シュリアは嬉しそうに微笑ませた顔を大きく縦に振る。
「そうです!会ったんですよ、羽の生えた男の子に!」
「…まさか。」
「夢じゃないのか?」とセリティウスは笑った。
「有翼人はとうの昔に絶滅したと聞いている。昨今に彼らを目撃したという情報は、聞いた事
がないよ。」
「でも、会ったんですよ!森で!」
「森…?」
「あ、ちゃー…。」
セリティウスが訝しげな視線を向けた途端、シュリアはしまったという表情で、口元を押さえ
た。
「何だって森なんかにいったんだい?シュリア。」
「…。…お父様には、内緒にしてくれます…?」
シュリアは彼女の父親にとって宝物のような存在だった。温室の花のように大事に大事に育て
てきた彼女の父親は、少女が一人で外に出る事さえ許さなかった。
 けれど、シュリアは大人しく父親の言う事を聞いているような少女ではなかった。ダメと言
われた事はやってみたくなる性質で、度々使用人達を困らせていた。
そんな少女の性格を知っているセリティウスが、勝手に一人で出かけたのだろうという推測を
たてるのは難しい事ではなかった。
「…勝手に外に出たんだね。」
「…はい。」
「ダメだと言われている事だろう?」
「……。」
シュリアは黙り込む。
 セリティウスは困ったように髪を掻くと、「もう二度とそんな事をしてはいけないよ。次そ
ういう事をしたと知ったら、君の父上に報告するからね。」と言った。
「…じゃあ。」
「今回だけだよ…?」
「ありがとう!」
少女は安心したように顔を綻ばせると、セリティウスの背に回りこみ抱きつく。
「おっと…。…それで?森で、何があったんだい?」
セリティウスを首を少しだけ後ろに回すと、問う。
 シュリアは可愛らしく微笑むと、「あのね。」と話し始めた。
「家の隣の森、あるでしょう?私、あそこに綺麗なお花が咲いているのを柵のこっち側から見
つけて、どうしても近くで見てみたくなっちゃったの。それでね、あっちの垣根に穴があるの
を知ってたから、其処を潜って森に入ったの。」
「おや、垣根に穴。其れは知らなかった。直ぐに庭師に知らせてあげなければね。」
「え、ちょっと、せんせー…」
セリティウスが言った言葉にシュリアは慌てた。もう抜け出す術がなくなってしまうからだ。
そんなシュリアの内心を知っていながら、「垣根の穴を必要とする人は、この家に誰一人居な
いだろう?精々、森の狼くらいだよ。」と肩を竦める。
「…うー…。」
「それで、森に入ってどうしたんだい?」
まだ不満げに唸るシュリアを抱き上げ、膝の上に乗せると、セリティウスは真っ直ぐな少女の
金の髪を優しく撫でる。
「…それでね、私、初めて森の中を歩いたの。天気も良くて、凄く綺麗だったわ。だから色々
なものを見ようとしたら……」
言葉を詰まらせる少女。セリティウスは片眉をあげ、こっそりと溜息をつくと出来るだけ穏や
かに助け舟を出した。
「迷ってしまったんだね。」
「…うん。」
シュリアは不安な面持ちでセリティウスの様子を窺った。セリティウスは何も気にしていない
ように振る舞い、「それで?」と先を促す。
「…えっと。私は凄く困ったわ。どんなに歩いても家は見えないし、それどころか、どんどん
暗い所に入っていってしまったんだもん。段々足は痛くなるし、心細いし、何処かで動物の吼
える声がするたびにビクビクしてた。」
「…そうか。」
「…。それで、ね。もう歩くのも苦しくて座り込んじゃったの。誰か見つけてくれないかって
大きい声で皆の名前を呼んだわ。でも、誰も来てくれなかった。…来られるわけ、ないよね。」
申し訳無さそうに翳るシュリアの顔。セリティウスは髪を撫でる手を止めず、少し微笑んでや
ると優しく言った。
「怖かっただろうね。」
「うん。」
「もう勝手に外に出ちゃいけないよ?」
「…はい。」
優しい声に安心したシュリアは、素直に頷くと、笑顔を見せる。
 セリティウスは「よろしい。」ともう一度微笑んで、
「さて、ここまで聞いてしまったら、シュリアの冒険話の続きが気になるなぁ。話してはくれな
いのかな?」
「う、うん!あのね!そしたらね、突然横の茂みがガサガサって動いたの。…私、狼かと思って
凄く怖かった。逃げようと思っても、身体が動かなかったわ。…でもね。」
「…でも?」
「出てきたのは狼じゃなかったの。羽のある人間さんだったのよ。」
シュリアはセリティウスが吃驚するのを期待しながら、声を高くして演出する。
セリティウスは予測通りだったけれど、わざと驚いたように声をあげた。
「其れは凄いな!シュリアは有翼人にあったんだね?…それで、その子はどんな子だったんだい
?」
「うん。私、初めは天使様かと思ったわ!翼が真っ白だったから!けどね、あの子、剣を抜いて
たから…。でも私、怖くなかったわ。だって、凄い綺麗な顔をした男の子だったのよ。髪は黒で、
肌は白くて、目は藍色だったの。…私、あんなに綺麗な男の子初めて見た…。」
ほぅ、と頬を染めて吐息を吐く少女に、セリティウスはこっそり笑んだ。其れを誤魔化すように
優しい笑みを被せれば、「へぇ、そうなんだ。」と相槌を入れる。
「けど、剣を抜いていたのかい?…シュリアの事を獣だと思ったのかもね。」
「ううん、違うの。」
シュリアは首を振る。
 セリティウスは不思議そうに首を傾げると、「違う?」と問うた。
「うん。…ライトはね…あ、ライトっていうのよ、その子。で、ライトはね、昔お父さんとお母
さんを人間に殺されてしまったんだって。それで、人間の匂いがしたから剣を抜いて私の所に来
たんですって。」
「…両親を人間に…?…そう、か。」
恐らく闇商人か違法のハンターの仕業だろう、とセリティウスは思った。人間が異種族を狩る事
は、多くはなくとも無い事でもなかった。
「…それでね、来てみたら相手は子供で、しかも女で、…それに、凄く泣いてたから…」シュリ
アは恥ずかしそうに言って。「だから、迷子だろうと思って顔を出したんですって。」
「…最初は、どういうつもりで人間の所まで来たのか、言っていたかい?」
セリティウスは何げない調子で聞いた。
シュリアが「ううん、何にも言ってなかったわ。」と答えると、
「…そうか。」
と軽く頷いた。
 多分人間に復讐するために、抜き身の剣を持ってシュリアに近づいたのだろうとセリティウス
は考えた。けれど相手が幼い迷子の少女だったため、諦めたのだろうと。
「それで、その子にシュリアは送ってもらったわけだ。」
「ううん。家の方向を教えてもらっただけよ。」
「…そう、なのかい?」
少し不思議そうに首を傾けたセリティウスに、シュリアは「うん。」と普通に答える。
「ライト、私と一緒に行きたくないって言うんですもの。」
「そう、か。」
それもそうだろう。人間に両親を殺されたのだ。人間の住処に近づくわけがないか。…セリティ
ウスはそう納得した。
「私、誘ったのよ?一人じゃ寂しいと思って、一緒に住みましょうって。」
「シュリアは優しいな。」
この少女は単純にそう思ったのだろう。ただ、相手の心境を考えるには幼すぎただけなのだ。
だから、セリティウスは落ち込んだように俯く少女に言った。
シュリアは照れたように微笑み、
「えへへ、そうかな。…私ね、ライトと一緒に居たかったの。」
「どうして?」
「だって…。だってライト、本当に綺麗な羽を持ってたから…。私、ずっと鳥になってみたいと
思ってたわ。空を自由に飛べる鳥…。」
シュリアは青い空を見上げた。空には歌いながら楽しそうに飛んでいる白い小鳥達の姿があった。
「――私、ずっと憧れてた。だからね、その羽を持ってる、私と同じ形をしたライトに傍に居て
欲しかったの。…でも、嫌って言われちゃった。」
悲しげに俯く少女を、セリティウスは愛しく思った。この子の純粋な性格が、セリティウスは好
きだった。少女を本当の妹のように思っていた。
「仕方ないよ、シュリア。…彼は、人間を怖がっているんだ。」
「でも、私とは友達になってくれたわ?」
「そうだね。シュリアとは友達になれた。けど、人間は好きになれなかったんだよ。」
「…人間がお父さんとお母さんを殺したから?」
セリティウスは頷いた。
「だから、彼はきっと森で暮らしていた方が幸せなんだよ。彼が街に出てきたら、きっと彼は苦
しむ事になる。皆人間なのに、彼一人だけ羽を持っているのだから。」
「外になんて出さないわ。」
シュリアは無邪気に微笑んだ。
「外になんて出さないわよ。だってライトは私だけのお友達だもの。あの綺麗な羽は、私だけが
見るの。そうすれば、誰もライトを傷つけないでしょう?あの綺麗な羽を傷つけるなんて、私が
許さないんだから。」
セリティウスは少女の言葉に少し、少しだけ、普段は抱かぬものを感じた。「…シュリア…?」
と彼が紡いだ名にも気づかぬように、シュリアは喋り続けた。
「だけどね、ライト、私の傍に居たくないっていうのよ?酷いよね。私はこんなにライトの事好
きなのに。…あーぁ、もうライトとお話できないなんて残念。」
溜息をつくシュリアは普段の可愛いシュリアで、少し感じた違和感を気のせいだ、と。セリティ
ウスはそう思う事にした。そうすれば、何も考えずに膝の上の可愛い少女を慰める事に専念でき
る。
「…そんな事はないよ。今度一緒に森へ行こうか。私がついていればきっと君の父上も許してく
れるよ。ライトに会いに、二人で行こう。」
「んーん。もういいの。」
シュリアは金の髪を揺らして首を振る。
そして、青空を羽ばたく鳥達を眺めながら、言う。
「だって、ライトはもう居ないもの。」
「…え?」
セリティウスはわけがわからず、戸惑った。
「私ね、鳥になりたかったの。」
青い空には白い鳥。
「自由に飛んでいける鳥に、なりたかったぁ。だって、お父様ったら私を自由に飛ばせてはくれ
ないんだもの。」
「そうかもしれないね…けど――」
「翼があれば。」
セリティウスの言葉は遮られた。
白い鳥達は楽しげに歌う。
「翼があれば、羽ばたけると思ったの。」
セリティウスはわけが判らず、もう言葉が出ない。
白い鳥達は楽しげに踊る。
「だからね、私、」
少女の瞳はぼんやりと白を追う。
白い鳥達は―――。

「ライトの翼、盗っちゃった。」

「―――――ぇ…?」
セリティウスはわけがわからず――。
白い鳥は――。
「ライトの持ってた剣でね、バサァって。」
「……。」
「…盗ったはいいけど、ライトの血でいっぱい汚れちゃったから捨ててきちゃった。」
「………。」
「えへへ。」



―――翼を盗られた白い鳥は、血に堕ちた。






―END―





・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・

えへへ。
暗いね。

…。
暗いねぇ。